朗読者プロフィール
岩崎聡子(いわさき・さとこ)
東京都出身。今村昌平監督「楢山節考」で映画デビュー。日本映画学校卒。富良野塾二期生。映画出演作に今村昌平監督『楢山節考』『女衒』、熊井啓監督『式部物語』『ひかりごけ』、原田真人監督『金融腐食列島』、早瀨憲太郎監督『ゆずり葉』など。舞台出演作に劇団1980制作舞台多数、新国立劇場『なよたけ』(木村光一演出)、同『ヒトノカケラ』(宮﨑真子演出/声の出演)、新歌舞伎座『売らいでか』、新派『女優松井須磨子』、南座・新派『ある八重子物語』など。その他、テレビ、CM等多数。
アイ文庫の「夢十夜」「こゝろ」「放浪記」などのオーディオブックで、岩崎聡子の名はすばらしい朗読家としてみなさんの記憶に刻み込まれていることでしょう。
役者として磨いてきた身体性は、朗読表現にも存分に生かされています。
アイ文庫オーディオブックとは
プロによる高品質な文芸朗読作品を制作しているアイ文庫。プロデューサーを務める小説家・音楽家の水城雄のもと、朗読を音声による芸術表現として捉え、演劇的な要素が特徴の朗読で魅せるアーティスト集団・NPO法人現代朗読協会とともに、意欲作の創造に取り組んでいます。
アイ文庫オリジナルオーディオブック・林芙美子の名作「放浪記」
CAST/STAFFタイトル: 放浪記(ほうろうき) |
重厚、軽妙、絶望、希望、繊細、大胆といった相反する要素に満ちた窮乏生活。
独身の若い女が都会の片隅で生き抜いていく辛さ、たくましさ……
芙美子が作家として世に認められる前の、放浪と恋愛と貧乏のどん底にあった20歳前後の日々が日記形式でつづられています。しかし日付が変わると突然時空が飛ぶ箇所があり、読み進めるうちに再登場したり、一部と二部で話がリンクしていたり。それがまたシュールな味わいを生んで、複雑で奥深い世界が展開します。
随所に出てくる詩の表現はオーディオブックならでは。
激しさと滑稽さ、瀬戸内の明るい寂しい風景と暗く活気に満ちた都会、それを彩るさまざまな人々が織り成す魅力的な世界に引きこまれるとともに、現代の“ハケン”労働者の思いを代弁するかのような切実な生活観には、思わず身につまされるような気持ちにも。
現代人に改めて触れてほしい名作、その第一部(以下、第三部まで)を全編朗読。
朗読者(岩崎さとこ)から
『放浪記』を朗読した一年間は完成された文学作品に記録されている林芙美子が生きた数年間に共に寄り添いながら日々味わいながら、生きていく行為でした。
それは絶望であり、希望でありました。
赤裸々に描写された、生きた女の感情を声にだして表現するとき、その言葉は同時に自分の音でもある。なんとも不思議な、同感とも共感とも思える心の震えを覚え、ほんの数行の間に、果てしない絶望と限りない希望の間を私は漂うことを許されたのかもしれません。
すべての収録を終えてから、新宿区落合の『林芙美子記念館』を訪ねました。晩年(といえども四十代)芙美子が夫と設計をし数年の時間を費やし、建てた念願の日本家屋であります。
苦労が報われて良かった。
なぜか祝福をしたくなりました。
本当に報われたのかどうかは分かりませんが、貸間ではなく、自分の家を建てた、林芙美子。私が絶望を共感していた『放浪記』がじつは希望に裏打ちされていたものだったのだと、改めて、激しい感動を覚えました。
演出家(水城ゆう)から
『放浪記』といえば森光子のロングランステージの印象が強い。そういう私も、収録前はそうだった。
が、収録してみてその印象は一変した。あたりまえのことだが、演劇のステージと文学作品はまったく別の表現なのだ。
林芙美子と同時代の小林多喜二『蟹工船』が、時代の流れのなかであらためて脚光を浴びたりしているが、私は『放浪記』こそ再認識されるべきだと確信している。
ここには激動の時代のなかにあって翻弄されながらも、しぶとくしたたかに、しかし繊細にしなやかに生き抜く女性の姿がある。
いまこそ林芙美子に学ぶことが多いのでないか。
そして、この文学作品をオーディオブックという、いわば立体化の作業をおこなった岩崎さとこの声の力にも、喝采を送りたい。収録に立ちあいながら、ずっと痺れるようなわくわく感を覚えつづけていた。
著者プロフィール
林 芙美子(はやし ふみこ) 1903~1951
1903(明治36)年、門司(または下関)に生まれる。
行商を営む家族と九州、中国地方を転々とした後、広島県尾道に落ち着き、文学への志を抱くようになる。高等女学校卒業後上京、貧困と孤独の中、職と男性の遍歴を経て、1926年に画家の手塚緑敏と結婚。
1928年から雑誌連載を始めた「放浪記」が改造社の文学叢書として出版されると一躍人気作家に。その印税で海外へ旅し、短編小説や随筆、紀行文などを次々に発表、ますます名声を高めた。
『晩菊』で1949(昭和24)年、日本女流文学者賞を受賞。
築いた地位を失うことを恐れ、原稿依頼はすべて引き受けたという。無理を重ねたうえヘビースモーカーで、心臓弁膜症を悪化させ、1951(昭和26)年、朝日新聞に「めし」を連載中に心臓麻痺のため急逝。享年47歳。