表現とは ―― 卑下せず誇示せずありのまま

表現とは、なにかをおこなうこと(行為)によって自分の存在(ありよう)を伝えることです。
では、自分とはなにか。
それはとどまることなく、常に変化しています。生きているからです。
「私はこういう人間」というのを掴んだと思ったとしても、ある一瞬の自分を掴んだだけであって、自分という全体像を掴むことは自分自身にも不可能です。あるいは、「私はこういう人間」という思い込みにすぎず、自分の可能性を自分で限ってしまっているかもしれません。また、他者に「あなたはこういう人間だ」と言われることは、往々にして不愉快な気持ちを生みます。人は、他者に自分を規定されることを無意識に嫌います。事実ではないからです。「私はこういう人間」という“定義”を見つけて一瞬安心することもありますが、やがて居心地が悪くなってきます。事実とずれてくるからです。それを無視して、“定義”どおりの人であり続けることが「ぶれない」ことだと考える人もいます。思想や思考は「ぶれない」ことが評価されたりもしますが、それは(オリジナル、独創ではないという意味で)自分の外側にあるものです。自分自身(内側)は生きている以上、動き流れ続けます。とどまること、不変であることは、幻想。
そんな「自分」を表現するとは、いまこの瞬間(presence)の自分ありのままを差し出す、ということ以外にやりようがありません。
「自分を表現する」ということを自己主張=自分の意見・考えを伝えることと解釈する人がいますが、まったく違うことがおわかりいただけるでしょうか。

共感とは ―― 評価を手放し考えを排除しコアを見つめる

 

あいぶんこの評価軸 ―― 作品の鑑賞ポイント

表現する者にとっては評価を手放すことは第一義であり、表現を受け取る者にとってもそれは同じなのですが、評価社会に生きている現代人にいきなりそうしようと言っても難しいですよね。そこで、そこに至る前段階的な方法として、複数の評価軸を立ててみることにします。

  1. 身体性(の表出)

 身体性は、表現とはなにか、という根源にかかわるものです。

  2. 共感性

  3. オリジナリティ

  4. 芸術性

  5. エンタテインメント性

  6. 技術(伝達技術)

 一般的に非常によく使われる評価基準です。表に見えて誰にでもわかりやすく、基準を作ればその上か下かを比較的簡単に判断できるので、思考力も必要としません。また、訓練次第で誰にでも身につけられるので、指導も比較的容易です。指導者の育成もしやすいので、スクールも作りやすく、ビジネスに利用されます。たとえば資格の類を得るには誰にでもわかりやすい(納得しやすい)基準が必要で、しかも資格の類のあるなしで上下関係を(狭い範囲ですが)作ることができるので、上になりたければ技術を身につけなさい、そのためにスクールに行きなさい、と言いやすいのです。

 この意味で、技術という評価軸は表現や作品として見た場合、さして意義がない(ある意味有害)と言えるのですが、伝達手段として見た場合には重要です。いくら最先端(現代)表現が技術を重視しないと言っても、最先端というのは一般には受け入れられにくいもの。また「伝わった(受け取れた)」と感じることでそれなりのカタルシスが受け取り手に得られるおかげで認められやすい、という利点もあるので排除はできません。

 また、収録作品についていえば、機器及び編集の精度、収録時や聴く環境等による音質の劣化を補うために必要となる発音・発声技術もあるでしょう。すなわち、技術的鍛錬を怠って良いということにはなりません。

 なお、「こんとりぼいす」で言うところの「技術」は、発音・発声技術です。編集技術は「オリジナリティ」や「芸術性」「エンタテインメント性」として加味していただければと思います。

あいぶんこ朗読ぽっど ―― あいぶんこの視点とお楽しみが作る番組